神原のブログ

同人小説などを書いています。

失うという不安

猫の写真を撮るようにしている。特に近所の仲の良い野良猫、クロという名前で呼んでいるが、この子の写真は会うたびに撮るようにしている。
野良猫の寿命は短い。野外という環境がそうさせるのだろうが、少なくとも室内飼いの猫よりも短命だ。クロはそれなりに高齢のネコであり、あとどれだけ顔を合わせられるかわからない。野良猫はある日ふといなくなる。そして二度と会うことができない。そういう別れはありふれていて、例外はないだろう。野良猫の死を看取ることはおそらくできない。
厳冬期が来るたび、猛暑の夏が来るたび、私は思う。この子はこのシーズンを無事乗り切れるのだろうかと。春や秋がくるとひとまずは安心できるが、それでも、数日顔を見ないと不安が心の中で大きくなっていく。どこかで死んでしまってはいないだろうか──
だいたいそういう顔をしばらく見ない時は発情期だ。数日経つとしれっと戻ってきている。野良猫に家という概念はない。あるのは、今どこにいたいか、今誰といたいか。それだけだ。その自由さが死ぬまでつづき、そしてある時そのまま死ぬ。
だから私は、クロと会うたび写真を残している。少なくとも、その瞬間クロが確かに生きていることを残したいからだ。多分近くに迫っている、具体的にいつ来るかがわからない別れの日を恐れて、私はクロの写真を撮っている。クロのつぶれた右目と、きゃおきゃおというかわいらしい鳴き声と、その毛の赤ちゃけ具合をいつまでも覚えていたい。その願いを込めて撮っている。

 

昨年の、ちょうど今ぐらいの時期に父方の祖母が亡くなった。その日私は即売会で東京に出ていた。即売会の準備がちょうど現地で終わったころ、家族から連絡がきて、祖母が倒れたことを知った。脳卒中だった。その文字を見た時、急いで戻ったところでもう二度と話すことはできないかもしれないと思った。事実その通りになった。
今でも即売会に行くたびに、頭をよぎってしまう。私がいない間に大切な誰かを失ってしまうんじゃないかと。夜寝るたびに頭をよぎってしまう。朝起きたら、大切な誰かが亡くなっているんじゃないかと。四六時中、この不安が胸で巣食っている。


私は、自分が死ぬということは、正直あまり怖くない。私の死は別に、私にとってはそれほど悲しいことではないからだ。むしろいつまでも生きろと言われる方が困る。
親しい人や親しい猫の死は別だ。その別れを想像するたびに胸が苦しくなる。今その人たちと過ごせるということが、すごく貴重なことに思えてくる。
少しでも多くのことを覚えていたい。どう別れるか、いつ別れるかは残念ながら選べないようだ。だからせめてその人たち(猫たち)とどう過ごすのかを、しっかりと、常に選んでいたいと思う。

クロ(と私が呼んでいる猫)